中 山 道

埼玉県内に現存する唯一の本陣 ☆ 桶 川 宿 本 陣 遺 構 ☆

桶川宿本陣遺構

中山道桶川宿には本陣として本陣x1・脇本陣x2が設置されていたが、現在は本陣の一部が江戸時代そのままに残されている。この建物は、傾きかけたものを解体後、当時の材料をそのままに、同じ場所に再建したものです。埼玉県指定文化財となっている

皇女和宮


桶川宿本陣の門と、
県指定文化財記念碑


県指定文化財記念碑


中庭から玄関を望む

皇女和宮

文久元年(1861年)10月20日辰刻(午前8時)、、降嫁のため京都を出発した皇女和宮。お迎えのために江戸から送られた行列は約2万人。道路や宿場の整備・準備・警護の者たちを含めると総勢20万人が関わった。11月13日桶川宿本陣に宿泊したが、このときの行列の最後尾はまだ熊谷付近だったといわれている。
桶川宿本陣には、この時に宿泊された「上段の間」を含む一部が残っている
。建物としては多少特徴があり、平屋だが高さがあり、内部は床から天井までの高さは普通と思われるが、屋根裏が高い。又、床下は外部から見て全て縦に木枠がはめ込まれている。これは、「本陣」という性格上、外部からの攻撃に備えたためといわれている。
上段の間の「床の間」の幅は一間だが、奥行きは一尺5寸位と非常に浅い。床の間の奥には万が一のときの非常口が隠されていて、廊下の腰板の一部に細工が施され、ここを開けると外部への脱出口となっている 



庭から上段の間方向


桶川宿本陣全景

文部大臣指定史跡

明治11年(1871年)8月の明治天皇の北陸行幸が行われた際、9月2日に桶川宿本陣に休息されている。昭和8年11月に明治天皇桶川行在所(あんざいしょ)として史跡指定され、翌9年に記念碑が建立されている

桶川宿 本陣 皇女和宮 ご宿泊の 「上段の間」

薬医門

本陣の門はその形から「薬医門」と呼ぶ。基本は前方(外側)に2本、後方((内側)に2本の計4本の柱で屋根を支える形となる。この門の特徴は、屋根の中心の棟が、前方の柱と後方の柱の真ん中に位置するのではなく、いくらか前方にあることだ。この構造のために前方の2本の柱を本柱とするため、後方の柱よりやや太く、加重を多く支える構造となる。
※桶川宿本陣の門は、幾多の移設を重ね、材木部分は桶川に戻って保管されている。
本陣 ⇒ 浅間神社(かつて桶川市寿1丁目3番にあり現存しない) ⇒ 造園業者の門 ⇒ 日本料理屋の門(後に店舗什器販売会社本社・目黒区青葉台・渋谷駅から約1Kmの地点) ⇒ 桶川へ里帰り
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中山道商店会では「再建費用」の一部として桶川市に
___50万円を寄付しているが、未だに再建のめどが立たない

京都茂山家による桶川宿本陣てだ開催される「お豆腐狂言」は毎回盛況裡に開催されました

明治5年「学制」により桶川学校が開校

 

奥に見える門が、当時の薬医門

明治5年11月5日桶川学校開校時の記念写真

目黒区青葉台にあった頃の薬医門

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解体して桶川へ持ってきたため、この姿は見られない

桶川学校はその後、寿1丁目地内に桶川小学校として移転

桶川小学校は分校が「桶川北小学校」として独立したのを機に

「桶川南小学校」に改称したが、平成19年3月閉校した

「桶川北小学校」は「桶川南小学校」と統合し

新たに「桶川小学校」として発足した