流れ流れて、目黒区青葉台(渋谷駅徒歩5分位)の事務所の門として
建てられていた頃の本陣の「薬医門」の写真3葉です |
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本陣正門 (薬医門)外観 |
薬医門を内側から |
重厚な門扉 |
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上の3枚の写真は目黒区青葉台三丁目にあった頃の桶川宿本陣正門
2枠下の左の写真の門は再建されたもので、本来の門ではありません 現在、解体されて桶川市内に保存されていますが、保存状態を考えると、早期再建が望まれます。
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日本で最初の学校制度を定めた教育法令の「学制」(がくせい)は、
明治5年の太政官布告第214号により、1872年9月5日 (明治5年旧暦8月3日)に公布された。
太政官布告より2ヵ月後の明治5年11月5日(旧暦か新暦か不明)、
桶川南小学校の前身である桶川学校(桶川小学校)が本陣で開校した。
これが、「桶川南小学校」が日本最古の小学校といわれる所以である。
奥に見えるのが本陣の本来の「薬医門」で、現在の門とは異なる
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桶川宿本陣の門と、 県指定文化財記念碑 |
明治天皇桶川行在所 (あんざいしょ)の碑 |
庭先より本陣玄関を望む |
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| 本陣の玄関 |
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| 庭先より本陣を望む |

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| 突き当たりの低い屋根の部分に湯殿・畳敷きの厠がある |
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皇女和宮の宿泊した部屋正面の外観 |
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| 上 段 の 間 |
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| 一段高くなっているご寝所 |
廊下より上段の間を観る ここを舞台に 篝火狂言や落語会を実施 |
座敷右側の廊下の 突き当たり奥に 湯殿・厠等がある |
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皇女和宮の宿泊地である桶川宿本陣には、ご寝所とされた上段の間が当時のままに残されている
「和宮降嫁」のときの御婚儀の行列は約2万6千人といわれ、楽宮・五十宮の先例に習い中山道を利用されたようである。 文久8年(1861年)10月20日に京を発ち、11月11日に埼玉県に入り、12日に熊谷宿本陣に宿泊した。 翌13日夕方に桶川宿本陣に到着した。 街道警備は忍藩・岩槻藩・岡部藩の三藩に命じられ 野営同様の装備で任務にあたった。 この宿泊のために改築が行われ、ようやく間に合ったという 宿泊は旅籠だけではなく全ての民家が割り当てられた。 栗橋宿・春日部宿の協力を得て膳椀1200組・布団2400組が用意されたといわれている。 通行時には代官 荒井清兵衛からは以下の達しがあった |
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◎本庄宿から桶川宿までの抜け道・間道の万全の警備
◎11月10日からの7日間は物静かにして鐘などをつくな
◎二階家は戸を閉めて看板・暖簾等は片付ける
◎道路は前日から清掃しておくこと
◎家の前には盛り砂を置き、手桶に水を入れておくこと
◎物・草履を沢山仕入れておくこと
◎通行前後3日間は御用の通行以外は禁止する |
桶川宿本陣は、加賀百万石前田家をはじめとする参勤交代時や、 15代将軍徳川慶喜の父水戸烈公徳川斉昭と 上述した文久8年(1861年)の皇女「和宮」のご下向時の宿泊地、 又、明治12年(1879年)明治天皇北陸巡幸の折りは、休憩場所として利用された かがり火狂言は、この「和宮」ご寝所となった「上段の間」を舞台として上演している。 通常は公開していませんが、狂言開催日には庭先より「ご寝所」がご覧になれます |