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「辰の水(タツノミズ) ・・桶川の消防団行事の起源について・・ (2009年1月加筆修正)

江戸時代、2月の最初の辰の日に桶川宿には大火があり、防火を目的とする「辰の水」の行事が桶川市消防団によって現在も実施されている。
この行事は、もともと桶川市消防団全体で実施されていた行事ではなく、火消しの組織が構成された頃の「中山道」沿線に設置された消火組合の行事として始まったものと考えられる。
桶川宿の中には、上(カミ=京都寄り)」から「下(シモ)=江戸寄り」に向かって
上町(カミチョウ⇒相生町) ・ 中上町(ナカカミチョウ⇒本町) ・ 下中町(シモナカチョウ⇒栄町) ・ 下町(シモチョウ⇒立花町) の町域があり、地域内のそれぞれに設置された消防組の行事として続けられてきたものである。
(※町名が不足している可能性があります)

旧桶川市消防団のうち、旧宿場内には、立花町=第一分団 ・ 栄町=第二分団 ・ 本町相生町=第三分団 があった。
この区域の分団に受け継がれた行事が、近年ほぼ全域の消防団に広がったのが現在実施されている行事である。
又、現在の北1丁目の多くを占める若松町には第七分団があり、この分団員の多くは三井精機工業(現在の若宮一丁目にあり、川島町に移転した)に勤務する人たちで組織されていたが、その後廃止となり、第三分団と統合された。
昭和59年頃に実施された分団再編成の結果、第一分団はそのままに、栄町(第二分団)・本町相生町(第三分団)が統合され新二分団となったため、旧桶川宿を含む管轄区域をもつ消防団は2つの分団となった。

過去の町域の呼称は現在も毎年7月15日・16日に開催される「桶川祇園祭」の組織名として残っている。立花町は「八雲会」、栄町は「栄町祇園祭保存会」、本町は「本街保存会」、相生町は「相生会」の名称である。


さて、桶川市史によると「江戸時代、桶川では宿の全域に及ぶ大火事が度々あった。2月の最初の辰の日の大火(といわれている)を教訓にして、防災意識の高揚のために、宿内の家屋に水をかけて、火災シーズンの到来と火の用心を目的とした。」という行事が受け継がれ、184年後(後述)の2009年現在も桶川市消防団によって続いている。

(2009年1月加筆修正)

江戸時代、2月の最初の辰の日に桶川宿には大火があり、防火を目的とする「辰の水」の行事が桶川市消防団によって現在も実施されている。
この行事は、もともと桶川市消防団全体で実施されていた行事ではなく、火消しの組織が構成された頃の「中山道」沿線に設置された消火組合の行事として始まったものと考えられる。
桶川宿の中には、上(カミ=京都寄り)」から「下(シモ)=江戸寄り」に向かって
上町(カミチョウ⇒相生町) ・ 中上町(ナカカミチョウ⇒本町) ・ 下中町(シモナカチョウ⇒栄町) ・ 下町(シモチョウ⇒立花町) の町域があり、地域内のそれぞれに設置された消防組の行事として続けられてきたものである。
(※町名が不足している可能性があります)

旧桶川市消防団のうち、旧宿場内には、立花町=第一分団 ・ 栄町=第二分団 ・ 本町相生町=第三分団 があった。
この区域の分団に受け継がれた行事が、近年ほぼ全域の消防団に広がったのが現在実施されている行事である。
又、現在の北1丁目の多くを占める若松町には第七分団があり、この分団員の多くは三井精機工業(現在の若宮一丁目にあり、川島町に移転した)に勤務する人たちで組織されていたが、その後廃止となり、第三分団と統合された。
昭和59年頃に実施された分団再編成の結果、第一分団はそのままに、栄町(第二分団)・本町相生町(第三分団)が統合され新二分団となったため、旧桶川宿を含む管轄区域をもつ消防団は2つの分団となった。

過去の町域の呼称は現在も毎年7月15日・16日に開催される「桶川祇園祭」の組織名として残っている。立花町は「八雲会」、栄町は「栄町祇園祭保存会」、本町は「本街保存会」、相生町は「相生会」の名称である。


さて、桶川市史によると「江戸時代、桶川では宿の全域に及ぶ大火事が度々あった。2月の最初の辰の日の大火(といわれている)を教訓にして、防災意識の高揚のために、宿内の家屋に水をかけて、火災シーズンの到来と火の用心を目的とした。」という行事が受け継がれ、184年後(後述)の2009年現在も桶川市消防団によって続いている。

しかし、昔の井戸型の消防ポンプを「龍吐水」と呼ぶし、暦では「辰=龍」を充て、水神の象徴として河童、蛇、龍などがあり、「龍=水」から、火災シーズンの2月の最初の「辰の日」をこれに充てたのが本当ではなかろうか(?)

とはいえ、実際に2月の大火について桶川市史から、その年月日の暦を調べてみた。結果として、江戸時代の桶川宿の大火は以下の記録として残っている。




※明暦2年10月15日(丙申{ヒノエサル}の年・癸卯{ミス゛ノトウ}の日)
(353年前・西暦1656年11月30日)
 
午後8時頃、終日烈風のさなか、下寺(浄念寺)より出火、堂宇楼門を焼き尽くし下町(立花町)から上町(相生町)まで宿の殆どを焼き払った。このときに残ったのは、本陣・大雲寺の他5,6軒である。

※元禄12年7月3日(己卯{ツチノトウ}の年・甲辰{キノエタツ}の日)

(310年前・西暦1699年7月29日)
下町から出火し下中町(栄町)の中ほどまでを消失して鎮火。

ちなみに
☆赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月15日(西暦1703年1月30日)

☆享保 3年(1718年) 南町奉行大岡越前守忠相が「町火消し」を作る
☆享保 5年(1720年) 江戸城下にいろは48組を編成・本格的な町火消し制度が発足

※天明4年12月16日甲辰({キノエタツ}の年・丙辰{ヒノエタツ}の日)

(224年前・西暦1785年1月26日)
  しばらく晴天が続き井戸も枯れるくらいの渇水状態で、しかも終日烈風のさなか、上中町(本町)から出火、火勢は四方に広がり下中町、下町、上町の殆どを焼き尽くした。この時は、本陣・問屋場も焼け、残ったのは浄念寺・大雲寺・南蔵院の他、十数軒。

この火災では本陣は建物と共に御賄道具を残らず消失し、御休泊御用にも差し支えることになった。
前年の天明3年(1783年)の浅間山噴火の砂降りで困窮しているところでの火災のため自力での普請ができないため、お手当金を下し置かれるよう請願も出ている

※寛政10年正月8日(戊午{ツチノエウマ}の年・丁亥{ヒノトイ}の日)
(211年前・西暦1798年2月23日)
午前2時ごろ、淨念寺の天神様の後ろに積んであった萱付近から出火し、宿内約100軒余りを焼失した。この火災でも、本陣・問屋場を焼失した。


※文政8年正月4日(乙酉{キノトトリ}の年・甲辰{キノエタツ}の日)
(184年前・西暦1825年2月25日)
午前10時頃、下中町(栄町)より出火、強烈な西風で39軒を焼いた。一説によると、この時の大火を起源として「辰の水」が始まったといわれている
又、本町の「布彦本店」(現寿2丁目4番)の敷地内に、このときの火災にも焼失を免れた「土蔵」が現存している


※文政10年12月11日(丁亥[ヒノトイ}の年・壬午{ミズノエウマ}の日)
181年前・西暦1828年1月27日)
 下町の市左衛門の灰小屋から出火、折からの西風にあおられて東西に広がり、焼失家屋はこれまでにない130軒に達した。この時も本陣は表の邸宅を焼失、問屋会所も焼失。宿内の酒造・醤油醸造を営む家も家屋と共に酒造土蔵と書道具を焼失した。
この火災で残ったのは大雲寺・浄念寺・南蔵院の他3~40軒。2年前の火災の復旧が充分でない時で、惨状は目を覆うばかりで、宿役人は粥の炊き出しをして罷災者の救済にあたった。そのために宿役人は代官所から金240両を拝借した。(宿内合計160~170軒)

◎ 借り上げた240両=現在の約960万円~8,400万円

※ ・食物を基準にすると:1両=4~20万円(米相場は豊作・不作、季節などによって大きく変動することがあった)
  ・労賃を基準にすると :1両=20~35万円


☆参考値☆
※ 金1両=米1石1斗・・・・・武士が俸給の米を売却するとき
  米1升=銭120文・・・・・庶民が買うとき(関西地方)


※当時の人は、今以上にお米に対する依存度が高く、1日にお米5合(1年で1.8石)を消費した。ただし、この相場は、主に大坂で商人が大量取引したときの相場で、江戸での小売値はこの1.5倍位になる。


2009年1月14日更新