消防団行事「辰の水」について
2月の最初の辰の日に桶川市消防団によって実施される「
辰の水
」の起源を追ってみた。
言い伝えによると「 江戸時代、2月の最初の辰の日に大火事があり、これらの災害を未然に防ぐために
宿内の家屋に水をかけて、火災シーズンの到来と火の用心を目的とした。」という行事が受け継がれ、
現在も桶川市消防団によって続いている。
そこで、桶川市史から実際に大火があった日と、その年月日の暦を調べてみた。
結果として、江戸時代の桶川宿の大火は以下の記録として残っている。
※明暦2年10月15日
(丙申[ひのえさる]の年・癸卯[みづのとう]の日)
(351年前・西暦1656年11月30日)
午後8時頃、終日烈風のさなか、下寺(浄念寺)より出火、堂宇楼門を焼き尽くし下町(立花町)から上町(相生町)まで
宿の殆どを焼き払った。 このときに残ったのは、本陣・大雲寺の他5,6軒である。
※元禄12年7月3日
(己卯[つちのとう]の年・甲
辰
[きのえたつ]の日)
(308年前・西暦1699年7月29日)
下町から出火し下中町(栄町)の中ほどまでを消失して鎮火。
ちなみに赤穂浪士の討ち入りは元禄15年12月15日(西暦1703年1月30日)
☆享保 3年(1718年) 南町奉行大岡越前守忠相が「町火消し」を作る
☆享保 5年(1720年) 江戸城下にいろは48組を編成・本格的な町火消し制度が発足。
※天明4年12月16日
(甲
辰
[きのえたつ]の年・丙
辰
[ひのえたつ]の日)
(222年前・西暦1785年1月26日)
しばらく晴天が続き井戸も枯れるくらいの渇水状態で、しかも終日烈風のさなか、上中町(本町)から出火、火勢は
四方に広がり下中町、下町、上町の殆どを焼き尽くした。
この時は、本陣・問屋場も焼け、残ったのは浄念寺・大雲寺・南蔵院の他、十数軒。
この火災では本陣は建物と共に御賄道具を残らず消失し、御休泊御用にも差し支えることになった。
前年の天明3年(1783年)の浅間山噴火の砂降りで困窮しているところでの火災のため自力での普請ができないた
め、お手当金を下し置かれるよう請願も出ている
※寛政10年正月8日
(戊午[つちのえうま]の年・丁亥[ひのとゐ]の日)
(209年前・西暦1798年2月23日)
午前2時頃、浄念寺の天神様の後ろに積んであった萱付近から出火、宿内約100軒余を焼失した。この時も本陣
・問屋場を焼失した。
※文政8年正月4日
(乙酉[きのととり]の年・甲
辰
[きのえたつ]の日)
(182年前・西暦1825年2月25日)
午前0時頃、下中町(栄町)より出火、強烈な西風で39軒を焼いた
一説によると、この時の大火を起源として「辰の水」が始まったといわれている
又、このときの火災にも焼失を免れた「土蔵」が、
中山道中央商店会会員店でもある
「布彦本店」敷地内に現存する
※文政10年12月11日(
丁亥[ひのとゐ]の年・壬午[みづのえうま]の日
)
(179年前・西暦1828年1月27日)
下町の市左衛門の灰小屋から出火、折からの西風にあおられて東西に広がり、焼失家屋はこれまでにない130軒に
達した。この時も本陣は表の邸宅を焼失、問屋会所も焼失。宿内の酒造・醤油醸造を営む家も家屋と共に酒造土蔵と
書道具を焼失した。この火災で残ったのは大雲寺・浄念寺・南蔵院の他3~40軒。
2年前の火災の復旧が充分でない時で、惨状は目を覆うばかりで、宿役人は粥の炊き出しをして罷災者の救済にあた
った。そのために宿役人は代官所から金240両を拝借した。(宿内合計160~170軒)
◎ 借り上げた240両=現在の約960万円~8,400万円
※ ・食べ物を基準にすると:1両=4~20万円
(米相場は豊作・不作、季節などによって大きく変動することがあった)
・労賃を基準にすると :1両=20~35万円
☆参考値☆
※ 金1両=米1石1斗・・・・・武士が俸給の米を売却するとき
米1升=銭120文・・・・・庶民が買うとき(関西地方)
※当時の人は、今以上にお米に対する依存度が高く、1日にお米5合(1年で1.8石)を消費した。
ただし、この相場は、主に大坂で商人が大量取引したときの相場で、江戸での小売値はこの1.5倍位になる。
2007年3月3日更新